連載
251回

ONITANI'S ESSAY

 おい、小僧ども。
 くだらない批判屋にはなるな。
 若気の至りというものもあるが、何にせよそういう手合いにはなるんじゃない。
 何かを評すると言うことは、自分自身を他にさらけ出すことだ。
 自分の価値観を他にぶつけるということだ。
 方法論だとか、形式だとか、結果ではなく過程の一部を見て何かを評せると思い、こき下ろしていい気になっているその横顔を、鏡に写して見てみると良い。
 醜悪に歪んだ、自分の顔をだ。

・マンガは芸術?

・最近のいわゆる「キャラ萌えマンガ」って…

・絵の才能ってあるんでしょうか?

表紙
最新 Backnumber 01 02

・マンガは芸術? 

 久しぶりに会った 友人から、この前フランスだかドイツだかが、自国の漫画は芸術として認識されているとかテレビで宣伝していた とか言っていたと聞きました(どっかの美術館の展覧会の紹介の中で) 。

 いや、ここ二、三年は飽きてきたのか 年に一か二タイトルとかしか漫画を読まなく なってきたのでここら辺で毛並みの違う奴を読んでみたいな と思いまして。

 (もし、はまれば趣味は芸術観賞とか言えるし)

  日本産でも欧州産でもかまわないですけれど これは芸術だーとかいう漫画ないですかね。

  正直なところ、漫画は私にとって今でも身近な娯楽なので 芸術とか言われるとどっかとーくのことなんですけど芸術として評価されているものがあるなら少し覗いてみたいんです。

 

・フランスのハナシだろうな、多分。

 言ってしまえば、国民性の違いだよ。

 フランス人というのは、とかく芸術という概念が大好きだ。

 何かというと、芸術性があるかどうかといった基準で物事を考えたがる。

 敢えてシニカルな言い方をするならば、なんでも芸術にしてしまうとも言える。

 フランス映画なんかも、その良い例だろう。

 フランスと日本とでは、もうマンガという枠のみならず、あらゆる表現メディアに対する基本姿勢が違うのだと認識する他はないだろうな。

 もし、もっとこのコトについて考えたいというのなら、芸術という概念についてより考えなければならなくなるだろう。だろうが、まぁここでのテーマからは逸れるので、今それを語る必要もあるまい。

 単純に、そういった方向での評価の高い作品、としてなら、現在インターブックスが翻訳、販売している『サンドマン』等があげられるだろう。定価が高いが、もしそういう評価の作品に関して興味があるのなら、一読してみるのも良いかもしれない。

 個人的にアドヴァイスするのなら、2巻以降の展開に至るまではかなり我慢を強いられると思うよ。

 ついでに、個人的な見解も加えさせて貰うと、マンガをに対してやたらと芸術であるとか文学的であるとか言った言葉を付け足すのは、サブ・カルチャー、カウンター・カルチャーとしてのマンガ本来のパワーを失わせる結果になりかねないと思っている。

 マンガは、あくまでマンガであって、それ以上でもそれ以下でもないと、俺は思うよ。

 

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・最近のいわゆる「キャラ萌え」漫画って・・・

   個人的には漫画はキャラで読ませるものだと思っています。

  だからキャラクター主体の漫画ってのも否定はしません。 「究極超人あーる」なんかキャラクターで成り立っているような ものですけど、行き当たりばったりのストーリーでもキャラが 立っているから読んでいて楽しいですし。

 ただ、最近のいわゆる「キャラ萌え」漫画って・・・、 浅いっすよね。キャラが。

 生きてる感じがしないと言うか。 『概念化した記号の集大成』ともいいましょうか。

 メガネっ子、お姉さん、猫耳、巨乳、セーラー服、 メイド、巫女さんなどどちらかと言うと「フェチ」の領域に 入る受ける要素を詰め込み、性格にしても優等生、妹系、タカビー などタイプ分けされたものを表面からなぞるだけという 程度の描き分けしかされてないキャラが多いような気がします。

 セリフも紋切り型の口癖や決めゼリフが多く、 いかにもとってつけたようで空回りを感じます。  要するにキャラを中心に置いているのにキャラクター、 すなわち人物を内面から描いてない。 それが出来てない作品を「キャラで売ってる」と 言うのには抵抗があります。  全部が全部そうだって訳じゃないんですけど。

 こういうのってあらゆるニーズに答えることを 第一とするギャルゲーの発想に似てるんですよね。

 まあそれにインスピレーションを受けたマンガが そうなのは当然と言えば当然なのかもしれませんけど。

 そりゃ見た目がかわいいということは重要だけど それだけじゃサンリオグッズやたれパンダと変わらない。

 いや、別に見た目オンリーだって構わない。 受ける絵を突き詰めることに関しては それはそれで凄いことなので否定はしません。 キャラクターデザイナーはそれに命かけてるんですから。 でも、借り物のカット&ペーストはカッコ悪いよなあ・・・

 悪いとは言わないけどもう少しがんばって欲しい感じ。

 

・まず、“キャラ萌え”とは何か、というトコロから考えてみたい。

  俺が考えている“キャラ萌え”という“行為”は、“象徴としてのキャラクターに対する妄想の自己投影”である、というものだ。

  “キャラクター”に対して、“共感”するでも、“感情移入”するのでもなく、ただ“自己にはじめから内在する何等かのイメージを投影している”のだと。

 つまり、キャラクターそのものには意味が求められていないのだ。

 物語におけるキャラクターというものは、そもそも “物語を物語り、構成する為のファクター” の一つに過ぎない。

 それはつまり、“シナリオ”であるとか“演出”であるとか、そう言ったものと本来等価である、という事だ(勿論、個々の作品が求める方向性によってそれらの比重は変わるものであるが)。

 “概念化した記号”というのは、鋭いところを付いていると思うよ。

 そして、“キャラ萌え”においてはむしろ“そうである事”が求められているとも俺は思う。

 “キャラ萌え”をするヒトにとって重要なのは、その“対象”が、“どれだけ自己の想像を投影するに足りるか” であって、“リアルな存在感”や、“内面”などは必要とされていない、というよりも、むしろそういった要素は“萌える”という行為においては邪魔ですらあるのだろう。

  要するに、“萌える”という事と、“感情移入”する、“共感する”という事は全く違うことだという事だ。

   『“キャラクター”に対して、“共感”するでも、“感情移入”するのでもなく、ただ“自己にはじめから内在する何等かのイメージを投影している”のだ』 という部分がそれだ。

 しごく単純化した例で申し訳ないが、例えば“メガネっ娘に萌え萌え〜” と言っている場合、そこで求められているのは“メガネっ娘”という“ステイタス”であって、“キャラクター”では無い。

 仮に、“物語的な意味をもって”“メガネをかけなくなった”場合、“メガネっ娘”としての“投影されるべき価値”が失われる。そして、“メガネっ娘”というステイタスが無くなっただけでキャラクター、或いは作品としての価値を失ってしまうのが、“いわゆる萌えマンガ” という事だろう、という事だ。

 これは、“前は勇敢なヤツだったのに、臆病なヘタレになったから共感出来ない”という事とは全く意味が違う。

 キャラクターがストーリーに対して能動的に作用している場合、外見や精神などを全てに、“変化”の可能性がある。それらの“変化”も含めて、共感したり感情移入するというのは別に変わった事では無く、“萌える”という“新しい言葉で定義する”様な事ではない。

 読者が求めるモノの違い、と言ってしまえばそれまでかもしれない。

 キャラクターがキャラクターとして能動的に物語へと作用しないことを望むと言うことは、要するに“何も変わらない、何も終わらない、語られる事の無い物語”を求めていると言うことになる。

 彼らは恐らく、既存の物語に一切興味がないか、あるいはそれらを受け入れるキャパシティーを持ち合わせていないかのどちらかなのだと思う。

 初めから“物語”、では無く“自己の妄想を投影できる対象”を求めている以上、マンガに“物語”を求めている人間とは方向性が相容れないだろう。

 

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・絵の才能ってあるんでしょうか?

 どうも数をこなしても上手くならないんですが、 イラストや絵というのは生まれつき才能なのでしょうか?

  それとも練習あるのみなのでしょうか?

  よく有名な画家や絵描きの人などは幼い頃に貴重な体験を 必ずしているといいますが・・・・

 原因として人体デッサンとか骨格の構造? とか基本的な部分 をまったくやっていないからということなのでしょうか?

  なんか先行き不安になってきたので投稿しました。

  それとイラストを描く時とかはあまり他人のイラストとか 見ないほうがいいのでしょうか?(影響されやすくなるとか・・)

・確かに、才能というモノはある。

 しかし、それは結果を出すまで分からないモノだ。

 誰かが何かを成し遂げたときに、それを表して『才能』という言葉を使う。基本的にはそういったものだろうし、そういったものだと認識しておくべきだろう。

 具体的な事を言えば、脳の構造という事になる。

 例えば、極端な話『目に見た風景を完全に記憶し、それを紙の上で再現することが出来る』 才能を持っているような人間は居る。学術的には、“サヴァン”と呼ばれる者たちだ。

 そこまでいかなくても、そういった記憶力、観察力、イメージを立体的に脳の中で再現する能力…等、“絵”を描くときに必要とされる脳の仕掛けというモノはたくさんある。

 人間のやる事なんてのは、つまるところ脳の中の神経回路がどういう風に繋がっているのかという仕掛けで決定されるものだ。

 そしてそれは、同じ作業を繰り返すことにより発達していく。

 幼い頃からやっていれば、さらに多く発達する事になる。

 その繋がりの素地のようなモノが、あるいは才能だとも言えるかもしれない。

 だが、だ。

   数をこなしても巧くならないと言うが、いったい何枚こなしたんだ?  10枚か? 100枚か? 1000枚か?

 考えても見ろ。

 例えば、週間連載をしている作家のことを。

 一本抱えているだけで枚数にして20枚近く、一月に4回描いている。

 そして、プロになる以前も含めれば、もっと多くの枚数をこなしているはずだ。

 さらには、幼い頃から好きで好きで、大量に描いていたという奴も居る。

 そういった連中と比べて、「数をこなしても…」 と言えるだけ描いているというのなら、仕方がない、諦めるのも良い。たぶん、才能は無い。

 だが、そうでないと言うのなら、おそらく才能を云々する段階にすら達していないと言うことだ。

 なら、じゃんじゃん描いて、じゃんじゃん人のモノを見て、じゃんじゃん人に見せていくのが、今やれる全てで、そして最良の事だろう。

 だいたい、マンガを描いている連中が「才能」を口にするときというのは相場が決まっていて、たいていは心が弱ってきているときだ。

 他を見て、自分を省みて、何かが足りない、何かが不十分だ。それが分かるのに、何が足りないかが分からない。

 だから、「才能」 という、「意志の力ではどうしようもないもの」に、逃げ込んでしまう。

 気にする必要は無い。

 ただ、少しばかり気が滅入っている。その程度のことだと思っておけ。

 そこを越えれば、また何かが見えてくるだろう。

 試しに10年、描き続けて見ろよ。そうすれば、今の自分が望んだモノになれなくても、なにがしかの者にはなれる。本気で一つの事を10年踏ん張れれば、何が来ても怖くは無い。  

 

●まだまだ物足りないぜ●
(ホントにね)

・当コーナーでは、各地BBSなどでの発言を、元発言者の許可を得ずに勝手に流用利用しています、…って書いてあるけど、前提としてそこから理解していただかないと何も始まらない何も終わらないってなのが現状です。

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